2011年12月31日土曜日

締めの言葉は…

なんのかのと2011年大晦日。
日本に暮らしているかぎり、世間胸算用並みの忙しさは
つきまとうものだ。

大掃除、郵便局、買い出し・・・の合間に
ちょこちょことお客様(来猫)のお相手。
彼らの食事のすきをみはからって、カットに行く。

2011年は、3月11日を境に2年分の歳を取った気分。
歳は取りたくないが、早く過ぎてほしい年だった。

来年2012年は、
良い意味でのミラクルがいろいろなところで起きてほしい、
そんな願いを込めて、年賀状にMagic Dragonを入れてみた。

さあ、今年の締めは「お疲れ様」
そして「まだまだ~ing」。
持続可能性をもとめて、前へ・・・!

来年もよろしくお願いいたします。

2011年12月18日日曜日

一目惚れのKUNIYOSHI

「好きな浮世絵師を1人挙げよ」と言われたら、
私は迷わず「歌川国芳」※と答える。
いつ見てもワクワクする作風で、一度見たら忘れられないからだ。

国芳は歌麿、広重らと比べると知名度はいま一つかもしれない。
しかし、東京スカイツリーの予見かと騒がれた「東都三ツ股の図」、
猫や雀をモチーフにして人間社会を投影した独特の作品は、
おそらくだれもが一度は見たことがあるはずだ。

その没後150年を記念した展覧会が東京・六本木で始まった。
会場となった森アーツセンターギャラリーには、
まるで重ね摺りを思わせるように、これでもか、これでもかと
前後期合わせて420点の作品が所狭しと並ぶ。

展覧会の構成は、武者絵、説話、役者絵、美人画、子ども絵、風景画、
摺物と動物画、戯画、風俗・娯楽・情報、肉筆画など10章にわたる。
国芳をとことん知るには十分といえるだろう。

しかも、前後期でほとんどの作品が入れ替わるというから
お目当ての作品が見たかったら要注意。早めに一度訪れて
「あれ、あの絵がない」と思ったら再度見なければならない。

国芳の魅力は、モダンでハイセンスな構成力。
躍動感のある巧みなレイアウト、柄やアイテムのおしゃれなこと、
嫌みのない効果的なデフォルメ、そして確かなデッサン力。
猫好きにはたまらない猫素材も見逃せない。

とにかくメリハリの効いた画風が「カッコいい!」。
作品から生命感あふれる主人公たちの生き生きとした姿が
次々と飛び出してくる。音楽なら、ジャズかコンチネンタル・ロック、
いやいや邦楽ロックといったところか♪♪♪

幕末という時代を反映してか、西洋絵画の影響もたっぷりだから
「あれ。この画風はあの画家の?」と突っ込みたくなるところも多々あって、
謎解きにも一役買っている。

記念の年の最後に滑り込んだサプライズ企画のような展覧会だ。

<本日のカタチ> 歌川国芳展 プレスビューより

■没後150年歌川国芳展
2011年12月17日~2012年2月12日
森アーツギャラリーセンター(六本木ヒルズ森タワー52F)
※歌川国芳(うたがわ・くによし)
江戸・日本橋、1797年生まれ。1861年没。
歌川豊国に師事。
いくつもの人体を組み合わせた人面画「みかけハこハゐが
とんだいゝ人だ」は、まるで果物で人の顔を構成した
マニエリスムの代表画家、ジュゼッぺ・アンチンボルドの
作風を思わせる。

猫もいっぱい


2011年12月2日金曜日

マニア・マニア

先日、映画「ピアノマニア」(東京では2012年1月公開)の
試写を観る機会に恵まれた。
ピアノの老舗メーカー・スタインウエイ社を代表する
熟練調律師の現場を追ったドキュメンタリーだ。

「完璧なピアノの音」を求めて、
演奏者と音色づくりに丁々発止のやりとりが繰り広げられる。
誕生から300年余、サロンや室内で個人的に楽しまれていたピアノは、
多くの聴衆に音楽を届けるための楽器に発展した。

近代音楽の基礎が固められると、
演奏家にはさまざまな音の仕掛けが求められるようになった。
音の強弱、軟弱、ニュアンスなど、
音作りのための細かい指示が書きこまれた複雑なスコアがそれを語っている。

この映画は、一流の演奏家による≪フーガの技法≫(バッハ作曲)の録音をメインに、
それに携わるプロたちの姿をそのまま描いたもの。
主人公のシュテファン・クニュップファーが
老舗メーカーのピアノの音作りに心血を注ぐ様子を、
いくつかのエピソードを交えながら紹介している。
ラン・ラン、ブレンデル、ピエール=ロラン・エマールらの要求に応えられる音づくりとは…。

それは弱音ペダルの圧力であり、キーハンマーの太さであり、
フェルトの厚みであり、残響板の位置であり、埃の有無であり…。
ロマンティックな世界にありながら、まったく即物的なたたかいでもある。
デフォルメ気味のカメラワーク、完全演奏を聴かせないなど、
徹底してマニアックな構成となっている。

名曲好みのクラシックファンよりもメーカー勤務の理系の方にウケルかも。
私は結構楽しめたのだが。

2011年11月15日火曜日

11月の風物詩

早いもので、11月も第3週に突入した。
今週木曜日はボジョレヌーボーの解禁日。
酉の市とともに、いつの間にか11月の風物詩となってしまった。

この解禁日と勤労感謝の日のある週末に
かつて、「現代用語の基礎知識」「イミダス」「知恵蔵」
という現代語辞典が同日発売されていた。

電話帳や時刻表とほぼ同じサイズの辞典は、
現代社会で必要な用語を中心に、その年の流行や風俗を反映した
資料を加えたもので、年鑑の性質も兼ね備えた「ことば典」だ。

もともとは第二次世界大戦後まもない1948年、英語の流入と
民主主義に基づいた制度改革に対応するために刊行された歴史をもつ
「現代用語の基礎知識」(自由国民社)が、その先駆けだった。
以後、長い間競合なく刊行されていたが、昭和末期に
「イミダス」(講談社)、「知恵蔵」(朝日新聞社)が発刊された。

辞典の性質をこよなく追求した「現代用語」
サイエンス、外国語のセンスに富んでいた「イミダス」
執筆者の裁量が割と自由で論説的だった「知恵蔵」
それぞれ個性があり
価格も2000円前後とお手頃だったため、一時は毎年3冊購入していた。

いまでは2006年に「イミダス」と「知恵蔵」が休刊となり、
「ことば典」はデータベース、web対応が主流となっている。
どうも「知識」が「情報」に負けた感が否めない。

メガ、ギガの単位で管理される情報量も重要だが、
辞典1冊10数センチの厚みは、ブロック替りにスピーカーの土台になり
スカートのしわ伸ばしの重しになったり、
押し花のよき台紙になり、昼寝の枕に欠かせなかった。
そうした恩恵は、ディスクからは生まれない。

2011年11月1日火曜日

当世古書事情②古本まつり2011

神田神保町は、自称“住人”が故郷の次に長く居る町。
毎年秋には、10月末~11月上旬に
「神田古本まつり」と「神保町ブックフェスティバル」が開催される。
ほぼ同じエリアで開催される2つの「本」まつりだが、微妙にコンセプトが
異なる。

今年52回目の「神田古本まつり」は、神田神保町界隈の
古書店が靖国通り沿いを中心に設置した特設テントで出張販売する
古本大放出バーゲン。
各店の個性的な「お宝」ものがずらりと軒を連ねる。古書というより
古文書にちかい代物もあり、見て回る人々も年を重ねた御仁が多い。

一方、今年開催21回目となる「神保町フェスティバル」は、書店というより
出版社が自社製品を直接バーゲンするワゴンセール。
バーゲンブックというわけではないが「ワケあり」ものがあったりして、
新品を安く買いたい人向け。会場も靖国通りより1本南に入った
すずらん通りが中心だ。日程も「古本まつり」より短い2日間で、
こちらは近隣のレストラン等も参加するため、
カレー、中華、ビールなどのメニューも豊富。

不況や震災のあおりを受けて、今年も「街の本屋さん」は激減したし、
出版不況はますます深刻な事態。
ひところは、身動きがとれないほどぎゅうづめだった靖国通り沿いの
歩道は、出店テントが減ったのか、北風に吹きさらされ。

それでも、昭和の希少本をゲットした。
『音楽の現場』芥川也寸志 /音楽之友社 1962年刊
トスカニーニ、クナッパーツブッシュ(出版当時まだ存命中だった!)など
巨匠の雄姿が満載! 夜長の秋にぴったりだ。

2011年10月24日月曜日

福に敬礼!

昨日、声楽一門の発表会が終わった。
成人を対象とした小スタジオでのコンサートは、
毎年、和気あいあいとしたもの。縁あって10数年のお付き合いになる。

この会の良い所は、高齢者が多いところ。
門下生のなかでは長老株の私も、年代順ではまだまだ“小娘”の領域にいる。
だから、入門以来ずっと雑用が続いている。

ギャラリーはおもに出演者の家族や友人たち。
喜寿のカルメン、ミミ、ドン・ホセ、アラ還のケルビーノ・・・。
楽屋では「あら、また太ったわ」と70代のお姉さま方が新調のドレスに
いそいそと袖を通し、メイクアップに余念がない。

そんな元気がこの会をささえている。
訪れる友人の多くは「パワーアップした!」と朗らかに帰っていく。
疲弊した現役世代には、良いカンフルだ♪
差し入れにいただいた「招き猫もなか」でさらにハッピー♪♪♪

<本日のカタチ> 招福もなか
  

2011年10月19日水曜日

林檎社電脳事始

IT界の革命児、スティーブ・ジョブ氏には自分も少なからずお世話になった。
そもそもコンピュータとの付き合いは、社会人1年生から始まったのだが、当時は
Apple製品が日本の職場で市民権を得る前の時代。
ワープロ、ファクスがようやくOA機器に登場し、原稿のやりとりが
ファクスでも失礼でなくなるのはまだ少し先で。

OLとよばれる女性たちが英文タイピングの腕を競い、
黒地に緑文字の英数字だけのモニタを必死に追っていたころ。
リアルタイムの電話通信ならメールの送受信が可能であり。
IBMのコンピュータが優勢を誇っていた。

そんなとき、あるプレスビューによばれた。
それは、新発売のAppleのノートPCだった。
ミニスカートのキャンペーンガールがスーツケースよろしく
軽々と持ち上げている白いPCは、ドレッサーのようにオシャレでまぶしかった。

それから5年もたたないうちに、Macはデスクにやってきた。
DTPという言葉が巷で闊歩し始め、アナログ編集長も自分のPCを
持つようになり、紙の版下と校正紙がどんどんモニタに吸い取られていった。

いま、壊れたApple社のPCに替り、仕事で使うのはライバル社のビジネスPC。
WEB環境は確かにスムーズだが、質実剛健という言葉が似合う
野武士のような武骨さをみるにつけ、
隅々までオシャレな遊び心一杯のMacが恋しいときもある。

2011年10月13日木曜日

絶滅危惧種①筆記体

中学生の英語のコーチを十数年ぶりに担当している。
それは姪の宿題から始まった。

21世紀の中学生がつかう教科書はどれも
A4判フルカラーの教科書、大きな文字、少ないテキスト、
リスニングや会話などの豊富な教材。
どれも自分たちの中学時代にはなかったものばかりだ。

大きく変化したのが、語彙数。一時期、約1800語とされた必修単語は
最近では約1300語までに整理されている。
IT時代になって、カタカナ語は増殖の一途にあり、
耳で覚えた外国語は数知れずといったところなのだが。

いっぽう、昔にあって今にないのが「筆記体」だ。
教科書によっては巻末にちょろっと1ページばかり載っているものもあるが、
ほとんどの教科書には記述がない。

文科省によれば10年ほど前から、筆記体は必修ではなくなったとか。
理由は、IT時代になり手書きの英語を読む機会が減っている現状からとか。
これには、少なからずカルチャーショックを受けた。
たしかに言われてみれば、その通りなのだが。
筆記体なら単語も憶えやすいのになあ、と考えるのは
アナログ時代の元中学生なのだろうか。

そして、相変わらず「英語嫌い」な子は絶滅というよりむしろ、増えている感じだ。

2011年10月12日水曜日

妄想MENU②そいつは、おめで鯛

たしか、江戸時代の「草子」ものだったかと記憶しているが、
高校の古文で習った、鯛にまつわる話が印象に残っている。

ある大店では、正月のごちそうに大きな鯛を一匹注文していた。
その鯛は、大旦那とその家族がいちばん良い部位を刺身にして食し、
番頭、手代と店での身分が下るごとに
食べられる鯛の部位も料理も下ることになっており、
最下の丁稚にも尻尾をつかった鯛のアラ汁が与えられた・・・云々、という内容だった。
この大鯛は、大相撲の優勝力士や恵比寿様がもっている
体長1メートル位の真鯛のことである。

しかしこの話をきいたとき、頭に浮かんだのは、我が家の食卓にしばしば登場する
小骨のがっしりした小鯛だった。
「えー、おろしたら食べにくいのに」と思わず漏らした私に、
同級生のK子が言った。

K子  「え? あんたんとこ、鯛は尾頭ごと食べるん?」
灯馬 「うん、そうだけど」
K子  「すごいな。まさか1人1匹じゃないよね」
灯馬 「うん。とにかく骨が多くてあんまり好きじゃないけど。
    こないだも残しておこられちゃったよ」
K子  「えー? すごいな。ウチなんか鯛なんてお正月もでないよ」
灯馬 「え、そう? 塩焼きだけどときどきでるよ」
K子  「えー? すごいな。普段から鯛食べてんの。すごいな」

さすがにここまで話すと、こりゃちょっと違う鯛の話ではないかと不安になった。
帰宅して母に話すと障子がびりびり破れるくらいに大笑い。
「ばかだね。それは真鯛。ウチで食べているのはこれ」と鮒のような小鯛を見せられた。

以来、実家で正月になるときまって登場する小噺だ。
たしかに、真鯛とくらべると体長20センチの小鯛は金魚みたいなものではある。

2011年10月7日金曜日

役に立たない学問

インタビューする側の礼儀として、いつも気をつけているのが、
学者・研究者に対しての「それ(研究分野)って何の役に立つのですか」という質問だ。

ノーベル賞受賞者が発表になる時期は、世界レベルで
「人類の福祉にもっとも具体的に貢献した」と評価される研究が注目を集める。
だが一般人にとっては、
物理・化学・医学生理学といった分野の研究は、
全くと言っていいほど普段の生活から縁遠いところに存在するもの。
専門用語だらけのニュースや記事に出合うと内容についていけず
「だからとどのつまり、なんの役に立つのだろう」と、生活との接点を探ろうとする。

かつて訪れた工業系研究室で、ついこの種の質問をしてしまい、
詳しい説明をいただいた最後に
「でも、われわれは成果を追求する工場ではありませんので」と念を押され、
失礼な質問をしたと反省した。

科学=サイエンスはまず理論ありきだ。
その理論は
「生産性がない⇒即、製品にならない⇒お金に結びつかない⇒役に立たない」
という俗人の欲からは遠い位置にある。
でも、俗人は手っ取り早く、身近な例で知りたがる。

では、その「知りたい」思いを抱えながら、なんと質問したらいいのだろうか。
そんなときは苦し紛れではあるが
「若いひとたちや子どもたちに伝えたいメッセージはありますか」と、
非常に漠然とした質問を投げてみる。
すると、ロマンチストよろしくの「名言」が返ってくるものだ。

2011年10月2日日曜日

妄想MENU①白玉の・・・

今年もようやく「灯火親しむ候」となった。
 この季節を代表する歌といえば、若山牧水の
「白玉の歯にしみとほる秋の夜の 酒は静かに飲むべかりけり」
 がよく知られる。
文法的解釈では、「白玉の」が「歯」と「酒」の枕詞、
「べかりけり」は、推量の助動詞「べし」の連用形(べかり)に
過去の助動詞「けり」の付いたものであるから、
大意は
「玉のように透き通った白い歯にしみとおるほど、
秋の夜に飲む清酒は、ひとり静かに飲むべきであった(ある)」
と、なるのだろうか。

しかし、自分は小学生のころ、
「白玉」は「白玉団子(月見団子)」だと思い込み、長い間、
「白玉団子が歯にしみるくらいの冷気ただよう秋の夜は
お酒もひとりで静かに飲むのが良い」と、
勝手に我流の解釈を温めていた。

秋と白玉団子(月見団子)を直結させるなんて、
まったく子どもの発想であり、
そもそも、毎日一升の酒を食らったがために、
肝硬変で早々に鬼籍に入った牧水の代表作なのだから
酒と「白玉団子」が同じ歌に出てくるわけがないのだが。

団子が歯にしみるのは、虫歯か知覚過敏か。
相当、団子に執着があったと思われる。

2011年9月29日木曜日

レッスン・ダ=モーレ ♡

9月22日、27日の2日にわたり、サントリーホールオペラ・アカデミー主催
「ジュゼッぺ・サッバティーニによる公開マスタークラス」を聴講できた。
サントリーホール・ブルーローズ(18時30分~)。

22日は、基礎テクニック編と称して、発声や体の使い方などを中心に。
27日は、楽曲解釈編。曲の内容や解釈まで踏み込んだレベルでの指導。
生徒は音楽大学大学院在学以上、オペラ研究生など、
各コンクールの入賞経験もありそうな才気あふれる新進気鋭の演奏家ばかり。
「どこが悪いの?」と思うくらい、ハイレベルなのだが、
ひとたび師匠のNGが入ると、一皮もふた皮もむけて垢ぬけた音色になる。
まるで小学生のリコーダーよろしく鳴っていた「楽器」が
某有名メーカーの音にグレードアップするかのよう。

テクニック重視の初日では、腹筋のささえと響きの場所のチェックがもれなく
入った。これは、歌うものにとっての共通課題というもの。自分の身体が
楽器であることの宿命でもある。
楽曲解釈編では、歌詞を細かく分析して、男女の機微を効果的に表現する。
ときどき艶っぽいジョークを交えながらリードするサッバティーニ氏。
これがホントのセクシーといふものじゃ!
愛の神、アモルがステージのあっちこっちで飛び回っているではないか。
失礼ながら、いつもこの調子でプライベートでもご指南されるのだろうか、
と余計な妄想をしてしまう。

イタリアというお国柄、さすがに「愛」の歌は本場だ。無粋なゲルマンの
男たちにはわかるまい。新橋あたりのオヤジたちも然り、とひとり独善的・
差別的に納得。
芸術の表現力はテクニックだけでは、なかなかカバーできないものだと実感した。
しかし、生徒のみなさんはじつにすばらしかった。かれらの未来に乾杯! 
次は、是非、劇場でお会いしたい。

2011年9月26日月曜日

当世古書事情①里親気分で

たとえどんなに安くてもバーゲンブックには手を出さないことにしている。
同じ本をつくる側の人間として、出版社(版元)のプライドを守りたいからだ。

バーゲンブックは、
版元が意図的に再販価格を非再販価格にした本のこと。
古書ではない本が、正価から安い価格設定で売られる本をさす。
なんらかの理由で、倉庫に眠る断裁処分になりそうな本の再出発を
価格変更で見出そうとする版元たちの涙ぐましい努力なのだ。

バーゲンブックではないが、大手中古書チェーンもよくみかける。
こちらは、古物商に属する。いったん購買された本を利用者から購入して
リサイクル販売するもの。
このテの書店が神田古書店街の「古本屋さん」と違うのは、商品の価値観だ。
商品の状態は新品に近ければ近いほど価値が高い。
前世紀に刊行された文豪の全集が、
1冊105円なんてとんでもないタグを付けられて店外の棚に並んでいたりする。

ちょっと、(お店の)オニイサン! これ初版なんですけど・・・(関係ないみたいだな)。
老舗出版元の新書シリーズも然り。えーっ! これはないだろう。
著者名ちゃんとみたのかな。みんな棚ざらしになってるなんてカワイソ。

ええい! もはや里親気分。ここは買うしかないでしょ。
「みんな、ウチへおいでっ!」とばかり、ばばっとカゴへ詰め込んで、
100円ショップ並の買い物になってしまった。

お得はお得だったのだが・・・。フクザツ。

2011年9月23日金曜日

Oh! Italiano♪♪♪♪

9月22日、江戸東京博物館(東京・両国)の「世界遺産 ヴェネツィア展」の
内覧会(本展は9月23日~12月11日)に出席。
 ラグーナとよばれる潟にかこまれた街ヴェネツィアの歴史を
その最盛期の美術作品と資料で見せる展覧会だ。

ヴェネツィアは、ペトラルカ、バイロン、ゲーテ、シャトーブリアン、ワーグナー、
プルースト、モーパッサン、ジョルジュ・サンド、ダヌンツィオ、コクトー、
スタンダール、トーマス・マン、ニーチェ等、
多くの作家たちの心をとらえてきた魅力の街(共和国)でもある。

本展の圧巻は、数々のテンペラ画。
各コーナーに、これでもか、と並ぶ職人たちの技の結集は、
数世紀経ったとは思えない色彩の鮮やかさと、板絵ならではの深みが
じっくり味わえる。これは、別の機会にまたゆっくり見て回りたい。
某社で携わったビジュアル系ガイドブックを思い出し、
テンペラ独特のにおいに半ば酔いながら、しばし隣の国技興行を忘れた。

その後は、溜池山王へ。サントリーホールオペラ・アカデミー主催
「ジュゼッぺ・サッバティーニによる公開マスタークラス」聴講に向かった。
サントリーホール・ブルーローズ(小)、18時30分~。

「生徒は多くて2人、持ち時間は1人1時間で終了は20時30分ころ」とふんでいたのだが。
これが、甘かった。45分のレッスンが3人分も続いた。しかも生徒によっては
1時間以上もかかってしまい、終了したのが21時20分すぎ。
その間休憩はたったの5分。

生徒は日本の優秀な若手ホープたち。最初はやる気まんまんだったのだが、
立て続けに何度もNGを出す師匠に「もう、かんべんして!」と言いたげな目が・・・。

おかげでギャラリーは、世界のテノールの軟口蓋を何度も拝ませていただいた。
これに幕間のワインがあれば、言うことなし! Italiano な1日♪♪


  <本日のカタチ・両国>
お隣では2011年秋場所

水辺のまち江戸・両国でヴェネツィア展


オブジェにあらず

2011年9月21日水曜日

タケミツに恋して?

図書館から借りた本の返却期限が迫っている。
『作曲家・武満徹との日々を語る』(武満浅香著/小学館、2006年)

1996年2月20日に死去した武満徹の妻・浅香さんに
小学館・武満徹全集編集長の大原哲夫氏がインタビューしたものだ。
対話型のテキストだからさらっと読めるかと踏んでいたら
これがなかなか深い内容で、欄外の註釈も読み応えがあった。

過去にその合唱作品を演奏した経験からだろうか。
 自分にとって、武満徹(タケミツ)は意外と身近に感じられる現代の作曲家だ。
生前、何度か都内の有名ホールや、現代音楽のコンサートなどで見かけた。

多くの現代音楽とよばれる作品には
何調なんだかよくわからない、雑音と演奏音の区別すら不明な
「主張だけが命」のような音とリズムがあふれている。
それらは、
モーツァルトやブラームスのような甘美な旋律をもたないし、
チャイコフスキーやショパンの哀愁も感じられない。

コンサートホールの空間には、「わけわからん」音があちこちに
ほうりだされ、観客はその音の所在をつかむ余裕もなく
とまどうばかり・・・、というのが現実だ。
しかし、
タケミツ氏はそうしたコンサートによく姿を現した。
招待席での「オシゴト」であったかもしれないが。

全自由席のコンサートでは、たいてい最後列ド真ん中に鎮座されていた。
「きょうあたりは来ているはず」と思って、あたりを見回すと
あの火星人のような風貌が静かな存在感を示していて、
ちょっと面白くてちょっとほっとしたものだ。

さて、この本。
ファンとして垂涎ものといえるのは、写真。
娘を抱く姿、菜園での作業風景、数々の大物音楽家や
アーティストたちとのショットなど、
おそらくメディアに掲載されなかったであろうプライベートシーンが、次々と現れる。
本人が生きていたら
「(載せるのは)やめてくれよ」と言いそうなカットもあるかも知れない。

貸出延長してみようかな。

2011年9月19日月曜日

1989の記憶

地元の図書館では不要となった資料を
「リサイクル資料」として、利用者に無償提供している。
リサイクル棚におかれた資料や本は、好きなだけ「ご自由にお持ち帰り」ができるのだ。

資料は、古い地図、年鑑、ばらばらになったシリーズもの等々。
購入したが一度も利用がなかった資料や古くなった資料が多い。
先日、そのなかから1冊をえらびいただいてきた。

朝日新聞社刊「朝日年間1990」。
1990年刊とは、その前年1989年(昭和64年/平成元年)の出来事を収録した年鑑だ。
ぱらぱらとページをめくるうちに、立ち読みでは済まされない
妙な吸着力の強さに抗うことができなかった。

なによりも、東西ドイツがまだ存在していた。ソ連も。
日本のGNPはアメリカに次いで世界第2位だし、
公定歩合はちゃんと%らしい数字が出ている。

統計資料は単純な数字の羅列。
そのなかから歴史の1場面が見え隠れする。

そして興味深いのは、ページのあちこちにみられる広告欄。
老舗の会社から、いまは存在しない会社まで。
当時の最新商品は、いまや博物館なみ。

そうそう、1989年は消費税が導入された年でもあった。
ひとことで言い表せない、ヘンな年。
この年を経験したことは良かったのか、悪かったのか―。
いまだにわからない。

2011年9月16日金曜日

涙の表現

新聞のTV番組欄で、よくみかけるのが「○○も号泣!」という
バラエティ番組や情報番組のキャッチコピーの表現だ。

号泣は、その字のとおり、大声をあげて泣くこと、泣き叫ぶこと。
人の死にさいして泣くのは「哀号」という言い方もあるくらい、
悲しみをドラマチックに表現する涙といえる。

しかし最近ではそれが、「涙をぼろぼろ流して泣く」という場面にも
使われるようになっている。
文化庁が9月15日に発表した国語世論調査で、この「号泣」も、本来の意味と
ことなる使われ方をする言葉として例にあがった。

いったい「泣く」「涙」を表す言葉はどれくらいあるのだろうか。
類語辞典(講談社)によれば、形容詞も含めるとざっと160種。
号泣、慟哭、落涙、感涙、むせび泣く、忍び泣く
さめざめ、しくしく、はらはら、ぼろぼろ、めそめそ、わんわん、くすん、うるうる・・・。

それらを全部「号泣」のひとことで言い切ってしまうのは
乱暴なセンスとしか言いようがない。
貧相な表現力は、デジタル放送もカバーできない。
ホントに情けなくて泣きたくなってしまう。

2011年9月15日木曜日

的、的、的

職業柄、“だれでもわかりやすい”かどうか、気になるようで。

先日、添付ファイルで送られてきた某「提案書」にはいろいろと
異議申し立てをしてしまった。

気になったのは、
「対△△的には、◎◎◎的であり云々」という表現。

さらっと流し読みしたときには、あまり目立たなかったのだが、
たまたま発見した誤植から、よく読み込んでみると・・・さっぱりわからない。
そして、主語と目的語のない文章。

え、えーっ? 
だれが、いつ、なにを、どうすりゃいいんだい?

文末には(← けっこう厳しい?)などと、起稿者のひとりツッコミも入っている。

おいおい。

社会☆にはそれなりに地位のある人たちが起こしたものであるだけに、
この「あいまいさ」はないでしょ。

・・・てなわけで、煙たがられること覚悟で、校正、もとい校閲原稿を返信した。


☆えー、この場合の「」の使用は適正ですよ。念のため。

2011年9月13日火曜日

タンスの後ろに落ちた指輪

人気占い女史によれば、本日、わたしは「タンスの後ろに落ちた指輪を拾うような日」で
キーワードは「カタルシス」だそうな。

そういえば、探し物が多い一日だった。資料、昔の書類など・・・
一度になかなか見つからないものばかり。

それでも全点なんとか発見。
おまけに、それらの近くにはいままで行方不明だった、これまた古い「版下」、
学年別漢字配当表なんかも見つかったりして・・・。

なかでも、
いまをときめく妖怪博士の名刺やファクスのレターヘッドは、かなりのお宝モノ。

スッキリ! したのもつかの間、またもとの所にしまっては、
こんどは何年後にお目にかかるのやら・・・。(たぶん、忘れると思うし)

2011年9月12日月曜日

イベントの少ない月曜日

札幌の友人が上京しているらしい。
いつも「●●日頃空いてますか」と、間際に飲みましょうメールがあるものだが、
今回は違った。

某駅からサントリーホールまでのアクセスをTwitterでたずねてきたのだ。
駅名から学会であろうと推察。
学会終了後に都内で聞けるコンサートがあれば、ラッキー♪ という腹積りらしい。

うーん。
月曜かあ。美術館・博物館・図書館はほぼお休みだし。
コンサートホールはメンテかリハーサル使用だし(まさか、オケの練習に乗り込むわけにも・・・)。

一応旅行者だから、そんなに入場料のお高いイベントはおススメできないし。
そこで、ほどよいサイズのホールで検索。
・・・あった! 第80回日本音楽コンクール声楽部門予選♪ (トッパンホール)
そうだ! 8月末からすでに各部門の予選が始まっていたのだった。

ギャラリーは関係者で埋め尽くされるかもしれないが。
エントリー出場のみなさん、客席に顔の大きなおじさんをみかけたら、
思いっきりアピールしてやってください♪

2011年9月9日金曜日

つながる? つなげる?

「あ・ら・かるちゃー   渋谷、恵比寿、原宿」のプレス・デーに参加した。

渋谷、恵比寿、原宿という3つのエリアは、
谷根千と山手線をはさんでほぼ対極に位置する。
このプロジェクトに参加するのは、21の文化施設。
発足から5年経っていたとは初耳だった。

しかし。
アップダウンの多いエリアだから、ちょいとアクセスがむずかしい。
上野のように、“ついでに寄ってこ”が困難な街並みなのだ。
こんな地形だったら、レンタサイクルもきびしいだろう。
人力車があったら風情があるのだろうけど、車屋さんにおこられそうだし。
点在する美術館、博物館、図書館をつないでくれる「ハブ」が
欲しいところ。

ハチ公バスがもう少し路線を増やしてくれないかなあ。

<本日のカタチ>

ヱビスビール記念館
 
区境の角 恵比寿ガーデンプレイス
  
JICA 地球ひろば
カフェのオブジェ

2011年9月6日火曜日

一生のカダイ

今日は午前中、健康診断。
前回のデータを見ながら「もう少し早めに手を打っておくのだった」と反省。
 ・・・しても遅かった。
また昨年と同じ注意を受けた。

ヘルス志向であっても、医学の情報や知識に触れることは、かなり勇気が要る。
できれば知りたくないマイナスの要素もたっぷり入っているからだ。

理科の教師だった父は、持病についてのデータを細かく記録し、
亡くなる当日まで日記を絶やさなかった。

ヘルシーに生きようとすれば、死についても向き合うことになる。
でも、そうすることでちょっとだけ謙虚になれることはまちがいない。

「健康」は父から与えられた、一生のカダイ(課題)なのだ。

2011年9月3日土曜日

野分けのまたの日こそ

いきなり、台風12号の到来となった。
ここ関東は進路から遠いとはいえ、強風の影響が否めない。
どこの野分けのまたの日も、平穏に訪れることを祈って・・・

今日9月3日はドラえもんと妹の誕生日。
幼いころからなんとなく近くて遠い存在だけど
大変な時代を生きる昭和時代の同志として、
遠くからエールを送りたい。

おめでとう!

2011年9月1日木曜日

10年経った…

をとこもすなるぶろぐといふものをおむなもしてみむとてするなり

学生時代の友を亡くして10年。今日は彼女の命日。
グリーフワークも、そろそろ残業の域に達したころだろうか。
9.11の年に9.11を伝えたかったであろう、彼女に替って
愚直に声をあげてみる。

果たせなかった再会を 一生の宿題に。